10月18日に紀伊国屋ホールで行われた小池龍之介氏の講演会に行ってきました。
小池さんは32歳で、僕と年齢は近いのですが、まとっている雰囲気は同年代とは根本的に異なっていると感じます。
彼がご実家で住職をなされているといった職業的な立ち位置の違いが大きいとは思いますが、今の日本で彼の著書がこれだけ読まれているというのは、職業の特殊性×彼の人間性がこの時代の足りない部分を埋めることができる期待からではないでしょうか。
講演会でご住職の話を聞くという体験は生まれて初めてでしたが、ディスカバーの干場社長との対談から講演会はスタートするのでした。
ちなみに講演会の間、彼はずうっと「椅子の上に正座」という講演スタイル。
話し方も独特で文字で表現すると、訥々と、という感じなのですが、頻繁に言葉を選ぶための間があり、一般的な講演とは違う雰囲気が漂っていました。
台本は用意せずにその場で論を組み立てていただいたようでしたが、本題に入る前の序論で時間切れとなってしまいました。
具体的な提案までは時間が足りませんでしたので、正確にはテーマの講演は無かったということだったのですが、序論の論の組み立て方、述べ方が新鮮で印象に残る講演会になりました。
テーマや主張が幻で終わり、聴講者が想像をするという、クリアな論説をただ受け止めるだけとは違うスタイルの講演会は妙に印象に残ったのでした。
10/18紀伊国屋ホール講演会 小池龍之介氏『幸福の定義が変わるとき』
■干場社長との前説
干場氏
彼のユニークな経歴、「親が住職×東大で西洋哲学専攻×現在住職」というのが西洋でも目を引いてフランス、ドイツ、スペイン等で版権に予約が入っている。数年後には各国で翻訳書が出ると思われる。
韓国では既に人気が出ていて翻訳書も。内容だけでなくビジュアル面での人気もあり。
小池氏
干場さんと2人だけでいる時と、こうやって人前に出る時とでは不思議と態度が変わってしまう。他の方の視線の影響ですね。
■小池氏の講演会スタート
人が集めるものが「幸せなもの」であると考えています。
人はそれを幸福になれると思って集めている。
集めるのがうまくいかないと悲しくなります。
子供の頃、自分の持っている珍しい筋肉マンの人形3つと、友達のお兄さんが持っている珍しくはない人形100個を交換する約束をしました。
100個を持ってくるのは大変だからと、自分の3つは先に相手に渡して、自分は相手が持ってくるのを公園の広場で待っていました。
けれど、相手は来ませんでした。
夕飯の時に親が連れ戻しに来て一度は帰宅したのですが、その後また公園に戻り夜中まで広場で待っていました。
結局最後には親に力づくで連れ戻され、「騙されたんだよ」と教えられましたが、自分は「何か事情があって来れなかっただけかもしれない」と相手が来れない別の理由を言い返しました。
あの、待っているのに相手が約束の時間に来ない状態は、とても心が引き裂かれました。
人は「こういうのが幸福」というビジョンを持っていて、自分がその状態にいないと寂しくなるようです。
学校で、みんなが友達と集まって昼食をとっているのに、自分はひとりぼっちで食べている。
「食事はみんなで食べた方が楽しい」というのが幸福のビジョンとしてありますから、その状態でない自分は不幸であると考えます。
ビジョン通りになっていない自分が悲しい、そういう回りの光景を見ると辛くなるから、トイレに籠って独りでお弁当を食べるという行動をとったりするようです。
「みんなとつながれないことは不幸である」そういう思い込みがあり、そんな現実は見たくないと考えるようです。
1つ幸福を手に入れると快感を感じ、もう1つの幸福を求めるようになります。
しかし、幸福を目指すと障害が出てきます。
その障害の程度は、幸福を感じるかどうかに関係してきます。
障害に対して、
全く歯が立たないと「つまらない」
簡単すぎても「つまらない」
と感じるようです。
適度に困難があって、頑張れれば乗り越えられるものを楽しい、と感じるようです。
自分の思い通りにならなくてはつまらないですし、
自分の思う通りになりすぎても奥行きがなくてつまらない。
欲望が満たされるのは、程よい抵抗を突破できた時なのです。
「苦労が無い」ことが「幸せ」ではありません。
自分から幸福の為に苦痛を望んで克服するということもあるのです。
例えば、ここに時計(ナースウォッチ)があります。
腕につけない時計で持ち運べるものは無いかと思い、こちらを探して買いました。
なかなか見つからなかったのですが、見つけて買えた時は嬉しいと感じました。
これは苦労を克服して得た幸福のひとつです。
そして、今「時間を知りたい」と思いました。
そして、時計を見て時間が分かりました。
時計を見るという行為は苦労で、時間が分かったのは幸福です。
非常に小さいことですが、これも幸福なのです。
「欲しい」ためには「ない」「障害がある」という状況を突破するのが嬉しい。
「手に入らなさ」が欲しい気持ちを強くします。
欲望というのは「今ここに無いものを手に入れようとしている」ということです。
私たちはその過程で邪魔するものを望んでいます。
簡単に手に入るとつまらないというのが私たちの心の仕組みです。
障害がない場合は、無意識的にやる気を無くしてみたりして障害を創ります。
何事もこなせるようになってくると欲望が湧かなくなってきます。
そうすると障害を創ってまで幸福を感じたくなります。
例えば仕事の内容以外に「自分に合っている職業を思い悩む」「誰々がむかつく」という、自分にとって適度に障害があるように環境設定をします。
逆に全く解決できない課題に向き合っていると、「そもそもこんなものはできないことが正当である」と歪んだ解釈で自己を正当化します。
人間は動物と異なり、情報を自分で入出力して自給自足できる生き物です。
手に入れた情報を回し続けるのが人間の特徴と言えるでしょう。
情報を集めたいのは、情報を集めるほどに生き残れるという思いがあるからです。
人間は影響力が増すものにしがみつきます。
有益、無益といった判断は行わずに、とにかく情報を集める傾向が人間にはあります。
なかでもより自分に関わる情報、致命的な情報(事件や事故)を集めることに熱心です。
自分に関係があったら大変だ、と錯覚して集めてしまいます。
「感情的になる」ということはその人が無意識的に傷ついたからです。
だから記憶にも残ります。
電話で謝る時に、相手が目の前にいないのに頭を下げるのは、受話器を持った現実より脳内で作り出した他者と向き合っているイメージが強いからです。
こういう現実より情報が強い状態だと、生きる時間が欠落していきます。
「情報を集めるほどに幸せ」と思うことは、「現実じゃないことに意識を持っていかれている」ということです。
(脳内で)直面していることに意識がいき、体のこと自分のことが欠落します。
非現実に心が持っていかれます。
「これがリアルだ」という思いが情報に奪われています。
無意識的に幸福になりたがっているから、情報を集めれば幸福という行動をとってしまいます。
「嫌々やらされている」と見えても本人はそうすることが幸福と思うから選択しています。
しかし、それは無意識に突き動かされている状態で、明確に考察された結果の行動ではありません。
「腕が腫れてしまった」という現実に対面したとき「知りたい、知りたい、集めたい」衝動に突き動かされます。
なんだ腫れたんだ、かゆいんだ、大丈夫なのか、と情報を集めようとします。
情報を集めて原因が分かれば安心できます。
食事でもネットでも、「腹八分目」という自覚があってもう十分ここで止めても幸せなのに、「あと少し、あと少し」と行動を続けてしまいます。
「手に入らない」という状態から困難を越えて「手に入った」状態で幸せなのに、探すエンジンがかかっているからもっと求めたくなる。
増やしたい、集めたい。
どんどん難しくして、できなくなる。
最後には「仕組みそのものが悪い」とゲームのルールを自ら書き換えて挫折。
もしくは「手に入り過ぎてつまらない」となってしまいます。
だから、これから幸福を求めるのならば、「何かを増やす」かた考え方を転換しなければなりません。
情報を減らすことが必要です。
幸福というのを外から仕入れるのではなく、「何もしない」ことで幸せを感じること。
そういうことを述べるのが本論の予定でした(会場笑)
こうやって序章だけで講演が終わると、幻の本論が印象づけられるかもしれませんねえ(会場笑)
最後にひとつ付け加えますと、
情報の量が増えるほど、拡散するほど自分の頭が自動的にかき回されるようになります。
かき回したくないのに、自分の思考が無くなってしまいます。
自分の考えのひとつひとつに集中できること。
ひとつに集中することで、視野が開けてきますし、霧がはれてきます。
願望ばかりを思うことを無くして、情報の量を減らして実行力を増やしていくことがこれからの幸福に求められることと思います。
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